2024年5月17日金曜日

小泉今日子(俳優 プロデューサー)    ・私は私〜自己プロデュースをするということ〜

小泉今日子(俳優 プロデューサー)    ・私は私〜自己プロデュースをするということ〜 

小泉さんは1966年(昭和41年)神奈川県生まれ。 1982年「私は16歳」デデビュー、その2年後「渚のはいから人魚」が大ヒットして、一躍トップアイドルになります。 その後も「ヤマチナデシコ七変化」、「なんてったってアイドル」などヒット曲を出して、80年代を代表するアイドルになります。 又、俳優活動にも力を入れて、ドラマ、映画、舞台と出演、2013年の連続テレビ小説の「あまちゃん」とか22019年の大河ドラマ「いだてん」などにも出ていました。  2015年舞台のプロデュースをするために会社を設立、2018年デビュー以来所属していた事務所から独立、自身の会社で活動を始めます。 げんざい歌手として、俳優として、プロデューサーとしてマルチに活動しています。 

デビュー以来今年で42年になります。  映画『碁盤斬り』が公開されます。 冤罪事件を起こし班にいられなくなった浪人・柳田格之進の役は草彅剛さんで、娘・お絹役が清原果耶さん、私はその親子を陰になり日向になり見守る遊郭の女将・お庚役です。 復讐劇です。  人情噺で役としてやったら凄く面白そうなので即答しました。 白石監督がきちんとした舞台としての色を作ってくれたのでやり易かったです。 京都の撮影所は初めてだったんですが、一つ一つのものを磨きながら大事に使っている、京都的なものが随所に現れている、洗練され感じがしました。  江戸の町ってこんな感じだったのかと思えるシーンが沢山ありました。 音、灯り、セットもそうですし、丁寧に作られた感じがします。  「覚悟」と言う言葉が随所にありますが、私も「覚悟」という言葉を使って生きてきたと思います。 

歌手になると決めた時も、1年目は判らなかったけど、ちゃんとやるという覚悟がないと出来ない仕事だなと感じました。  節目節目でそう思ったし、今もそうありたいと思っています。 年頃になって、一家離散的なことがあって、姉二人がいますが働けたりしましたが、私は足手纏いになってしまうと感じて、出来る仕事があるかなと思ったら受かって、自分の仕事が出来たという感覚でした。 父が小さな会社を経営していましたが、倒産して、母と私がこっそりアパートに住みました。 問題が解決して戻ってもいいといことになりましたが、私以外は誰も戻りませんでした。  早く仕事が見つかったので気は楽になりました。  皆同等と言うような家族でした。 家族離散とはちょっと大げさに言いましたが、家族が繋がってはいます。 今は亡くなって、姉一人と私だけになってしまいました。 

或る時にディレクターが変って、曲調が明るくなった瞬間があって、ショートカットにしたり、服もカジュアルにしたりして、反抗したというような印象に見えたかも知れませんでしたが、そういう訳ではありませんでした。  いいお姉さんたちと親しくしてもらって、いろいろなところへ連れていってもらったり話をしてもらって、そこで吸収してゆくのが凄く楽しかったです。 芸能界に入って一番最初に凄く嬉しいと思ったのは久世光彦さんのドラマに出た時でした。 久世さんからは飴と鞭でいろんなことを教えてもらいました。 

色々なことを教えてもらったお陰で、プロデュースに興味を持ちました。 2015年に会社を設立し、舞台に制作から始めました。 2018年には独立しました。(50代)  残りの人生は自分で責任をもって、生きてみたいと思いました。  沢山お勉強代がかかりました。 還暦までは毎年ツアーをやって、歌手として立つB所を作ろうと思っています。 とりあえずゴールを60歳に置いていて、そこから先は未定にしています。 いろんな方がオファーしてくれるので、それだったらどうやろうかとか何時も考えています。 自分からこんな役をやりたい、この監督とやりたいというようなことは余り無いです。 総合的にプロデュースすると言うのが、多分私のやり方なのでそうなっているのかもしれないです。 









2024年5月16日木曜日

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中!

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中! 

ビリ―バンバンは1969年にメジャーデビュー、3歳上の兄孝さんと歌う「白いブランコ」や「さよならをするために」が大ヒット、1972年には紅白歌合戦に初出場を果たしました。 今年でデビュー55周年を迎えますが、その途中にはともに大病を患うなど大きな変化もありました。 菅原さんは現在76歳、ソロ活動も活発にやっています。 さいきんではアニメソングや若手アイティストの楽曲をカバーして、動画サイトで配信、幅広い世代から反響を呼んでいます。 

動画サイトは2年ぐらい前からアニメの歌とか、歌いました。 若い人はテンポが速いが、僕の場合若い人には歌えないゆっくりとしたテンポで歌おうと思いました。 Adoさんの「うっせいわ」というカバー、オリジナル曲はエネルギッシュですが、僕が歌いと違い印象になります。 ゆっくりだし、歌詞の意味がつかみやすくなります。 再生回数が150万回。 動画がモノクロです。 ゲーム音楽もカバーしています。 それまでのビリーバンバンの世界観とは全く違います。 若い人たちは全然発想が違うので、それを歌いたいと思いました。    

中学校時代からアメリカンポップスが大好きでした。 シングル盤を100枚ぐらい買いました。 それを聞いて、それが僕の音楽の始まりでした。 母は音楽が大好きで、父は音痴でした。 兄弟は3人ですが、一番上の兄が一番うたがうまかったんですが亡くなってしまいました。  次男の孝兄さんも歌が好きでした。  父が浜口庫之助先生を知っていて、紹介してもらって、兄と共に先生の学校に通うようになりました。(高校2年)  2年後に兄弟でやろうという事が決まりました。  自分では中学生のころから歌で生きて行こうと決めていました。  先生のお屋敷に白いブランコが有ったんです。 そこに座って作詞家の小平なほみさんと作ったのが「白いブランコ」なんです。 ヒット曲になりました。

それから55年になりましが、いろんなことがありました。 兄とは喧嘩が絶えなかったですね。 1976年に一回解散をしました。 半分以上は喧嘩別れと言うような感じでした。  6,7年後に再結成をしました。  一人でCDを出しましたが、仕事もなくなって来てその時が一番大変でした。 酒を飲んだり、妻とは喧嘩をしたり人生が荒れていました。  再結成をした時にCMソングがヒットしました。 再結成は母からのアドバイスでした。  2014年に兄が盲腸のガンの手術をしました。 その2か月後に僕が脳出血で倒れてしまい、ビリーバンバンはもうおしまいかなと思いました。  後遺症が残って歩くこともなかなかできなくなり、声も出づらくなりました。  健康に気遣って塩分を控えめにしていましたが、手術をして先生からは塩分が足りなすぎると言われました。 塩分も大事なんです。  

兄も車椅子ではあるが元気になり、母がまた二人でやりなさいと言ってくれて、1年後には再び開始しました。  母は僕たちのステージを一番前で見て泣いていました。 それを見てこっちも泣いてしまいました。 母は96歳で亡くなりました。 母の存在が全てと言うような感じです。 椅子から降りて寝てそのまま亡くなって、本当に天国に行ったんだなと感じました。   父も92歳で眠るように亡くなりました。  父は凄く真面目で寡黙で90歳でコンピューターを始めました。 筆でいつも朝書いていました。  父が90歳の時に60人ぐらい呼んでパーティーをやったんですが、父からも仲良くやるように言われて、ぐっと来てしまいました。

僕も両親と同じように眠るように逝きたいと思います。 終活は全くないです。 遺言状はもう書いてあります。  欲はもう捨てました。  どんどん歌っていきたいという、歌の欲はあります。 声のためにはお風呂のなかで200回腹筋運動をしています。 手足も結んで開いてを200回やります。  最後の遊びは散歩だと思います。 1時間ぐらい歩きます。  コロナ禍で丁度その時にアニメの曲を歌いました。 それが今話題になっています。 いくら喧嘩をしても兄弟愛ですね。 2022年にドラえもんの映画の歌を歌いましたが、兄弟愛がテーマになっています。  「心ありがとう」

55周年を迎えることになり、77歳にもなります。  ともかく歌を歌いたし、アルバムを作りたいと思っています。  生きていくうえで優しさがベストです。 わたし終いの極意としては、楽しく生きる、嘘をつかない、心はピュアに生きたい。 ネガティブにならないで、いつもポジティブに生きることが一番楽です。 先は判らないので、考えても仕方ない、なるようになる。 






2024年5月15日水曜日

鳥海 修(書体設計士)          ・「書体はどうつくられるのか?」

鳥海 修(書体設計士)          ・「書体はどうつくられるのか?」 

鳥海さんは山形県出身の69歳。 長年日本の文化に無くてはならない書体を作る仕事を続けてきたことが評価されて、今年吉川英治文化賞を受賞しました。 鳥海さんは多摩美術大学で活字デザインを知り、書体を作る仕事に入りました。 現在100以上の書体を作っています。 書体の作り方、書体の面白さなどを伺いました。

鳥海と言う名前は「とりのうみ」と読み、山形県の住んでいた30軒ぐらいの村、そこにしかいないんじゃないかと思います。 東京に住んでいましたが、コロナ禍で在宅勤務が可能となり長野県安曇野市に引っ越しました。 

日本語の書体は漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベット、記号、などを加えると23000字を越えます。 一文字一文字バランスよく統一感を持って作ってゆくというような仕事です。 書体とフォントは違う言葉ですが、書体はデザイン様式と言うか姿を現していて、フォントと言うのは文字のセットのことを言っています。 日本語フォントと言うと漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベット、記号があって、それだけの文字セットを作っているという事です。 日本語は漢字、ひらがな,カタカナ、アルファベットなどが文章のなかで混じってしまうので、どういう風にバランスよくデザインするというのが、相当難しいし、世界でもまれな書体です。 それだけに奥が深くて面白いです。 

フォントは3000以上4000未満はあると思います。 書物の活字を作ることをメインにしています。 その中に楷書、隷書、行書など多種多様な書体がります。 賞状などは書体によりありがたみがない気がします。 フォントは正方形の中に一文字を書きます。 書道は四角の中に納めるというよりは四角から飛び出すような文字を書きたいので、同じ文字でも表現の仕方が違います。 ラーメン屋などの看板には筆文字系のフォントを使っているところが多いです。 看板こそ手で書いて欲しいと思います。 

私が得意としてやってきたのは、読みやすい書体で且つ綺麗な書体を心掛けてきました。  作る時には必ず漢字から始めます。 画数が多いのでめちゃくちゃなデザインが出来ません。 12文字、書体見本を作ります。 それを元に文字を拡張してゆき、漢字が1万4500ぐらいまで増えてゆきます。 それに合わせた平仮名と片仮名をデザインしてゆきます。 漢字に比べて画数が少ないので小さくなり、太くもなります。 次にアルファベットを作って、最後に記号関係を作ります。 それで一つのフォントとしてまとめます。 藤沢周平をイメージしたものを作りました。  なんにでも使えて、安心して使えて、綺麗だという書体が出来たらいいなあと今は思います。  小説とか、印刷して読むという目的に対しては、私は一つでいいんじゃないあと思います。 

子供のころはタクシーの運転手になりあかったが、機械が好きで工業高校に行きました。  製図が好きで車の整備士になりたいと思いました。 そのうちに車のデザインをやりたくないました。 美術大学を二浪して入りました。 大学3年の時に文字デザインがあり、或る時先生が毎日新聞社に連れて行ってくれて、一文字だけレタリングしている光景を見ました。  活字の元だと言われ吃驚しました。 案内役を務めた小塚昌彦さんが発した「日本人にとって文字は水であり、米である」との言葉に郷里の風景を重ね、書体制作の道に進むことを志すことにしました。

宮部みゆきさんから「私、ヒラギノしか使わないのよ。」と言われました。 ヒラギノフォントのヒラギノは京都の地名の一つです。 ヒラギノと言う書体は結構尖っているんです。(ヒイラギから来たのかも?) 自分で作った書体は100を越えています。(見分けは出来ます。)  

今年吉川英治文化賞を受賞しました。 一人で作ると5年、10年かかるかもしれませんが、4,5人のグループでつくるので、2万3000字を作るのに2年程度で作ります。 魚へんは点が4つありますが、イライラするぐらいめんどくさいんです。   平仮名、片仮名を私一人で作ります。  筆順が変るという事は絶対駄目です。 平仮名には面白さがあります。 平仮名は半分ぐらいを占めるので、平仮名を変えるだけで文章の印象が随分変わります。 平仮名は平安時代に出来た日本独特のものです。 お金は儲からないけど遣り甲斐は相当あります。 今まではきれいな水が流れるような小川の様な書体を作っていたような気がして、大河のような書体を作りたいと思っています。

















2024年5月14日火曜日

川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)  ・「手当」が教えてくれること

川島みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)  ・「手当」が教えてくれること 

川島さんは1931年 韓国ソウルの生まれ。 終戦の翌年島根県に引き上げてきました。   1951年に日本赤十字女子専門学校(現日本赤十字看護大学)卒業、約20年は病院の看護師として勤務、退職してからは研究会を主宰し、母校で教鞭をとり、東日本大震災の時には看護師のチームを率いて被災地に駆けつけました。 川島さんが考える看護師本来の看護の力である「手当」を考え、普及しようと2013年に日本手当推進協会を設立しました。 2007年にはフローレンス・ナイチンゲール記章受章しています。 

父が銀行員をしていたので転勤が多くて、小学校の時には5回、女学校は5年間で4回転校しています。 適応力は出来たと思います。 北京で敗戦を迎えましたが、父は単身赴任で奥地に行っていました。 ポツダム宣言が受諾されて、日本人が残っているのはけしからんと言うことで、即日本に引き上げという事になりました。 途中の辛い事は言葉ではいい尽くせません。  島根県に戻ってきて県立の女学校に編入しました。 厳しい校則に中で1年半過ごして、日本赤十字女子専門学校(現日本赤十字看護大学)に行きました。 

おむつを取り替えたり、便器を差し上げたり、ご飯を食べさせたり、身体を拭いてやったり、看護師の仕事をしていて、これが専門職の仕事なのかと疑いながら、これは大事な事なんだと自分に言い聞かせてやっていて、専門職だという確信が持てなかった。 卒業後すぐに死にかけていた少女の身体を拭いてあげたら、生き返った経験が自分自身であって、初めてやっぱり専門職だと思いました。 注射、機械が無くても命は救えることが出来ると、これが私の看護の原点です。

約70年の間で看護師の労働条件も良くなりましたが、看護界全体を考えた時に、看護の仕事の全体の流れを考えた時に決して良い方向ではないんじゃないかと思います。 社会の目はいまだに看護師は医師のアシスタントと言う風に思っている人が沢山いると思います。  看護師は誰もが持っている「治る力」を如何に引き出すかという事が看護師の仕事で、そのためには何をするかと言うと、食べたり、だしたり、息をしたり、身体を綺麗にしたり、眠ったり、話したり、動いたり、そういった暮らしの営みの一つが欠けると、病気の症状以上につらいんです。 自分のやっていた営み、習慣が保たれ続いてゆくことを、きちんと整えるのが看護なんです。  一人一人の生活習慣はみんな違うんです。 それに適したやり方で援助するという事は相当高度な能力が必要なんです。  看護医師が本来の仕事ができる環境を作るのが一番大事なんです。 人手不足、仕事の忙しさからそういったことがなかなかできない状況にある。 

昔は全寮制で看護師は結婚すると退職して、看護医師は独身が不文律でした。  私が看護師になって10年ぐらいすると、新しい教育制度の下に卒業していた若い子が「それはおかしい。」と言うんです。  数人で寮を出て働き始めたら、あまりのも賃金が安い事、労働力が厳しいことが判りました。  夜勤を1週間続けてやって、夜勤手当が入って6000円ぐらいの手取りでした。4畳半で4500円でした。  何とかしないといけないといいことになりました。 60年安保の時代だが白衣の天使と言われて労働組合に入ることはとんでもない事だった。 一緒に寮を出た人のなかで結婚して妊娠した人が居ました。 婦長に話したが、これは労働組合に入らなければいけないと思いました。  

看護師が妊娠しても、重いものを持ったりしたり、妊婦がやってはいけない言うようなことをやらざるを得ませんでした。 労働条件を改善するために、夜勤の日数を減らすとか、妊娠したら夜勤はしないとか、いろいろ要求を一杯出して、労働組合を動かした?わけです。  子供を育てながらと言う事は夫の理解がないと駄目です。  保育所(保育室)を作ったのも最初でした。   看護師をして15年ぐらいしてから自分も勉強したいと思って要望を出したら、断られてしまって、自分で作りますと言って、東京看護学セミナー という学習集団を作って自分たちのお金で運営を開始しました。 そこでの蓄積が私にとっては凄く役に立っています。 

もっと勉強したくて辞めましたが、講演、原稿の依頼が増えてきて大学に行くようなことになりました。  70歳になってから母校の教授になりました。  日赤の病院を良くすれば全国の病院も良くなってゆくと思って、もう一回日赤の役に立つことがあるかも知れないと思いました。  2年経ったら学部長になってしまいました。 主人が舌癌になりかいごもしなくてはいけなくなって、あの頃は3時間睡眠で大変した。   

「長生きは小さな習慣の積み重ね」と言う本を昨年出版しました。 人生100年と言うと凄く長い感じがしますが、一番大事なことは明るく楽しく自分らしく暮らすという事を目標にしてほしいと思います。  そのためには加齢にとらわれないことだと思います。 暦年齢と本当の心身の年齢は違うんです。  最終的には介護を受ける時間が来ると思いますが、出来るだけ短い期間にしたい。  出来るだけ心配、悩み、ストレスを減らす。  嫌な人には合わない、嫌いなことはしない。  人間は元々群れる本質があります。 一緒に食事をしたり、話をしたりすり事がとてもいいことです。  コロナ禍でそういったことが失われてしまってその後遺症が現れるのではないかと心配されます。 独り暮らしの人は、一人でいることのリスクはいっぱいありますから、一日一回は電話でもいいから声を出してしゃべることは大事です。  手を当てるという事ですごくいい効果があるんです。 痛みを取り除くだけではなくて、不安、心配も除きます。















2024年5月13日月曜日

桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

 桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

桂小須美さんは大学で洋楽を学んだあと、三味線の魅力にとりつかれて邦楽の世界に移ります。 そして修業を経て寄席の囃子として活躍していましたが、当時すでに大御所であった玉川スミさんの目に留まり、その芸を伝授されることになりました。 2012年に玉川スミさんが亡くなるまでのわずかな期間に、小すみさん伝えられた熱い思いをたっぷり語っていただきました。

音曲師と言うのは、寄席においては三味線を弾きながら歌を歌うという三味線音楽です。   玉川スミさんは芸の百科事典、生き字引といった人でした。 

大正、昭和、平成と90年近くに渡って演劇の世界で活躍した玉川スミさんは、1920年(大正9年)福島県郡山市生まれ。 生後間もなく両親が離婚し父親の元で浪曲を子守歌代わりに育った玉川スミさんは、幼いながらも浪曲を巧みに歌う天才少女と呼ばれたそうです。  その噂をききつけた女流歌舞伎の一座に入寮し初舞台を踏んだのは3歳の時、その後も10人以上の育ての親の元を転々とし、浪曲だけでなく民謡、舞踊、チンドン屋、サーカス団のブランコ乗りなど様々な芸能を経験し、習得します。 

戦後しばらくは3代目春風亭柳好さんから授かった桂小豆の名で、漫才師として寄席に出ていましたが、相方にめぐまれず昭和33年からは、一人で演じる三味線漫談を始めます。 芸名を玉川スミに替えたのは1960年(昭和35年)劇作家長谷川伸さんの門下生だったユーモア作家の玉川一郎さんから名前を授かりました。 幼いころから習得した様々な芸を盛り込んだ玉川スミさんの三味線漫談は独自の芸風を確立、120本もの扇子を使って松を表現する松ずくしという芸は1971年(昭和46年)文化庁芸術祭優秀賞にも選ばれました。 又1991年(平成3年)には勲五等宝冠章を受章しています。 晩年も舞台に立ち続けた玉川スミさんでしたが、2012年9月25日心不全のため亡くなりました。(92歳) 芸能生活90年を迎える直前でした。  

14歳までに13人の親が変っていたと言っていました。 稽古で頭をバチで殴られて7針縫ったというようなことも言っていました。  10代には失恋をして樺太の海に飛び込むとか、大変なエピソードがいろいろあります。  負けん気が強い性格でした。 2001年に国立演芸場で見ましたが凄すぎて、いろんなことをやりました。 三味線漫談、マジック、漫才、民謡に合わせて二挺鼓、太鼓の解説、日本舞踊、浪曲(一本刀土俵入り)と言ったものを一日で全部やるんです。 

桂 小すみさんは東京学芸大学教育学部音楽学科中学校課程卒業。大学在学時、在学中にウィーン国立音楽大学に国費留学、再び東京学芸大学に戻り邦楽の授業で三味線とお琴を学びました。 大学卒業後は長唄三味線方の杵屋佐之忠に師事。 その後国立劇場の大衆芸能研修生となり、寄席囃子の専門訓練を受けた後に、2003年落語芸術協会のお囃子になります。 2018年からは桂小文治門下に入り前座修行、2019年3月デビューしました。 これまでにも数々の賞を受賞していますが、今年は芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しています。

ウイーンではミュージカルを専攻していたので、御芝居、バレエ、声楽などいろんな勉強をさせていただきましたが、洋楽の観点からも和風な観点からもすごく面白くて、自分もそうなりたいという思いはなく、絶対無理だと思います。 

*さのさいり?都都逸の一部  玉川スミ

三味線の稽古場があり、「さのさ」を教えてあげるという事で、玉川スミさんが先に弾いてその後弾いたら覚えがいいと言われました。(その前に何百回と見ているので、一応真似は出来たんですが)  前に聞いた歌が素敵だったのでどういうものか聞いたら、にあがり新内という事で、稽古をつけていただきたいと言いました。  OKを頂きましたが、凄く難しい歌だったそうです。 同じことを真似っこして歌うんですが、宇宙に飛んで行ってしまったような不思議な感じがしました。  その後に師匠がお客様の前で歌ってみて弾いてみてどんな節がいいのか、と言ったことを練ってゆくものだ、そういう勉強を売る気はないかと言われました。  20分の初高座に収まるような歌をいくつか教えていただきました。 そうこうしているうちに師匠が入院してしまいました。 入院中も指導があり、危篤に二度なっても元気になったりして、「貴方の初高座を見るまでは死ねないよ。」といって下さいました。 その一月後には亡くなってしまいました。 

私はオペラ歌手になりたかったが、声が上手く出なくて挫折しましたが、ミュージカルの方は楽しく歌えるようにはなりました。  その後、長唄など日本の歌を勉強しました。  貴方の声は日本の物に向いていると言われて凄く嬉しくなりました。  私は末廣亭に入ってから亡くなったことの連絡を受けました。 吃驚して直ぐに飛んでいきました。 

「興味を持ったものはどんなものでもいいから、全部一生懸命勉強しなさい。 いっくらやっても足りないから。」と言われました。  師匠の生き方そのものかもしれません。 鏡、着物など頂きましたが、大事に使っているのが木魚と「リーン」となるのが一つにくっついているものです。 念仏するときなどに使っています。 

玉川スミ師匠への手紙

「・・・スミ師匠に音曲師への転向をお勧めいただいてからおよそ7年掛かりましたが、お囃子の古田直美師匠と、桂小文治師匠、他皆さまのご支援、御指導のお陰様を持ちまして、音曲師桂小すみとして歩き出してからちょうど6年経ちます。・・・信じられない賞をいくつかいただきまして、私もびっくりしています。 ・・・ 私にお稽古つけてくださいながらスミ師匠が何度もバーッとデビューさせて皆を驚かしてやるとにやにやしながらおっしゃっていたのを思い出します。・・・ スミ師匠が私の長唄三味線の師匠杵屋佐之忠先生と長く前からのお知り合いだという事は吃驚するご縁でした。 ・・・ 先生たちが私が入門する前に大病患われており、奇跡の復活をされた時にたまたま私が入門しています。 

私に情熱的に三味線のすばらしさ、面白さを、演奏を通して稽古を通して教えて下さいました。・・・覚えの悪さを申し訳なさを思いつつ、いまは感謝の気持ちでいっぱいです。・・・生きている間は一生懸命はたらいて、死んでからゆっくり休めばいい、とスミ師匠が毎日言っておりました。・・・スミ師匠がどれだけ苦労されて、様々なことを学ばれたのか、その大変さは想像が尽きません。学校にいけなくても読み書きを覚え、6歳のころには着物の仕立てを覚え、いろいろな伺うことが一昔前の芸や暮らしの図鑑の様でした。  その大変さを微塵も感じさせず、強い負けん気と芸の力はいつも身体から溢れておいででした。・・・ 病床ですら芸事を教えていただきました。 ・・・スミ師匠いつもご指導ありがとうございます。」







































2024年5月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

 奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

パガニーニによる大練習曲から 第3曲「ラ・カンパネッラ 作曲:リスト               ピアノ曲としては最も有名な曲の一つ。  オリジナルはヴァイオリンの曲です。 ニコロ・パガニーニヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲して書かれた。

華やかなテクニック、音楽性を持つ音楽家。 名人芸の系譜と題しておおくりした。

パガニーニによる大練習曲から 第3曲「ラ・カンパネッラ」のクライマックスの部分 作曲:リスト 

*ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章 ロンド 作曲:ニコロ・パガニーニ ラ・カンパネッラ」の原曲

パガニーニの超絶技巧に感銘を受けた作曲家シューベルトとヨハンシュトラウスの父です。1828年(ベートーベンが亡くなった翌年)にウイーンでパガニーニは今のヴァイオリンを弾いてセンセーションを巻き起こします。 

*パガニーニ風のワルツ  作曲:ヨハンシュトラウスの父(パガニーニの超絶技巧をワルツにならないかと考えた。)

*無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲  第9番ホ短調La caccia)』作曲:パガニーニ  超絶技巧の曲

シューベルトはパガニーニの曲を聴いて日記に「天使の歌を聞いた。」と書いている。   

*魔笛から「夜の女王のアリア」 作曲:モーツアルト モーツアルトが歌に託した超絶技巧。

*「連隊の娘」 作曲:ガエターノ・ドニゼッティ  第一幕 トニオは「これでマリーと一緒にいられる」との喜びを爆発させる。 「ああ!友よ、何とめでたい日々だろう」を歌う。   テノールに超絶技巧が織り込まれている。 

*無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲 「第24番 イ短調」  作曲:ニコロ・パガニーニ  映画パガニーニ愛と狂気のヴァイオリニスト』 のオリジナルサウンドトラックから、デイヴィッド・ギャレットのバイオリン  本曲集の終曲であり、非常に有名な作品。